心の叫び、心のリハビリ

しがない底辺にいる独りのサラリーマンが世の中に送るメッセージ

誕生日を迎えて思う事

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こんばんは。Vファーレン長崎男子のDAIKAMです。

さて、本日6月4日は私DAIKAMの誕生日というものです。

お金も無いし、ただ年が1つ重なるだけなので、別におめでたくも何ともないですが……

誕生日になったら毎年色々考えてしまいます。

自分は何がしたいのか。
本当に今のままでいいのか。
etc.

毎年恒例の考え込みなので、特に深くは考えていませんでしたが、今年はなぜか例年のように軽く考えを頭の中でさらっと流すわけにはいかない気がする。

ブログを始め、Twitterを始め、外の世界と自分から繋がる事を今まで以上に体験しています。

給料的に文句あるけど、外と繋がるという思考を植え付ける余裕が出来たという面では今の職場に自分を拾ってくれた事に感謝しています。

前々職は色々とブラックな運送会社。

前職は仲が良かった社長に言葉巧みに誘われ、給与面嘘つかれたし、熱中症で倒れたし……

その記事は後日まとめます。

だから今の職場にこの時期にいる事が何か意味があるんじゃないかと考えずにはいられない。

それに伴い、なぜ自分がこの時代に、なぜ都会ではなく田舎に産まれ、なぜこの年齢で過ごしているのかという事にも何か意味があるんじゃないか。

考えれば楽しくもあり、悲しくもあり、虚しくもある。

人は自分で望んで産まれてこれない。
両親に望まれて産まれてくる。
産まれてくるという事は社会に望まれて産まれるのであり、その人生で何か成さねば産まれてきた意味は何だったのかを考える。

人には様々な可能性があるはず。

その可能性は考える事から始まり、最終目標が成就してもしなくても考える事は財産になる。

ブログが財産になるという事がなんとなくわかる気がしたりしなかったり。

そして今の底辺の生活にも何か将来に繋がる意味があるんじゃないかと考えてみる。
そうしないと心が折れそうでならない。
心を折る事が現代社会の思惑なら意地でもしがみついてやる。

考える事を放棄したらもう後は転げ落ちるのみ。

今の格差社会は底辺の人間から考える事を奪って上流階級のみを優先する社会なのだろう。

でも自分は負けない。

この社会に負けてなるものか。

今は少しの読者しかいなくても、閲覧数少なくても、きっとそのうち日の目を見る日が来るはず。

以前いち保護者の「保育園落ちた。日本死ね。」の呟きが話題になり、国会にも取り上げられた。

この言葉の存在は今どうなっているのか。

風化してしまっているなら本当に勿体ない。

あるいは与党の圧力で消されたのか……

自分の言葉が世間で影響を与えれるように日々考え、過ごして行こう。

そしてなんとか底辺の日々の中でも面白い事を探して行って、発信しよう。
それがほんの一握りの人々からしか受け入れられないとしたら、自分は本気でその人々と色々分かち合いたい。

それが社会を良くする何かに繋がるなら本望です。

高杉晋作の名言に
「おもしろき、こともなき世を、おもしろく」
という句があります。

これは一般世間に通ずる所もあると思います。

何の変哲もない毎日が繰り返しの退屈な日々でも、少し目線を変えたら視界が変わり、面白いものがあるんじゃないか。
それを生きている間はずっと探していきたい。
ささやかな面白味を探していっていつか大輪の花を咲かせよう。

憲法に国民は健康で文化的な最低限度の生活をする権利がある。との事ですが、権利ではない。
人々がしっかり生きるという事は義務である。

その義務を踏みにじっている現代の社会。

ならば皆で考えよう。

この上からの踏みにじりから抜け出す方法を。

自分達には考える頭があり、言葉があります。

頭をフル回転させないと人生勿体ない。

考える事を放棄していては今の社会は絶対に良くなりません。

それでは。

ちなみに、

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